「理由」に散りばめられたキーワード

今回の「理由」は、今までの大林映画を連想させるモノが、分かる人には分かるように、散りばめられていました。

最初に気がついたのは、開始早々、交番の前を通り抜けるチンドン屋。「北京的西瓜」の八百屋のシーンで何回か登場します。
そして、上田のシーンは、「告別」の墓地のシーンを思い出させてくれました。(演じていたのが、峰岸徹さんだったからかもしれませんが。)「告別」といえば、学習塾のシーンで流れてきたピアノ曲は、「告別」の、いわばテーマ曲、リストの「ため息」ではなかったかと思います。ちょっと記憶が曖昧ですが。
ラストシーンは、「時をかける少女」を連想させますね。

それだけなら「ああ、そう。」で終わってしまいますが、ラスト近くに来て、おもわず「おおっ!」と声を上げてしまいました。
八代祐司がマンションの部屋で一人、りんごの皮をむくシーン。あそこは孤独感を表現しているシーンだとは思いますが、同じようなシーンで終わる映画があります。

ほかならぬ小津安二郎監督の「晩春」。娘(原節子)を嫁に出した父(笠智衆)が、一人りんごを取って、ナイフで皮を剥き始めます。まるで涙を隠すように目を細めながら、さくさくと器用にりんごを剥き続ける男。
こちらの「理由」では、不器用にざくざくとりんごの皮を剥く男。何か不思議な、キーワードの一致を感じてしまいます。

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「理由」の風景

映画「理由」の最初のシーンは、暗雲垂れ込める空の映像(というか、ほとんど静止画)でした。それに、不気味な音楽が重なって・・・。子供がコレを見たら、泣き出しそうな映像でした。(((^_^;)

今回の「理由」は、場面転換的に、風景だけの映像を短く挿入していたのが、印象的でした。それらのほとんどは、空と雲の映像。それが徐々に薄日が差し始めて、スポットライトのように夕日が射し込み。雲ひとつ無い、しかし血のような夕焼けになったりします。これは何かの寓意なのでしょうか?人の心の奥底の表現なのでしょうか?興味の尽きない映像でした。

ところどころ、まるでビデオの早回しのように挿入される、東京の風景も印象的でした。1つ1つの映像は非常に短い物ながら、まるでサブリミナル映像のように、東京の色々な風景を心に焼き付けてゆきます。それもただ”不気味”とか”無機質”というのではなく、実際に人がそこに住んでいて、そこでごく普通に生活している、普通の東京の景色。演じる人の背景の窓から見える、電車やビル街の風景も、いかにも”東京”の景色でした。それらが、非常に美しく感じられました。

舞台が下町に移ると、さらに風景に優しいトーンが加わります。始めのシーンで、あの少女が涙をこぼすシーンの暖かさ、それがラスト近くの「どうして他人のことなのに、こんなに泣けてくるんだろう。」という、少女の独白にもつながります。夕日の隅田川は、本当に泣けてくるほど美しく描かれていました。

おそらく、あの商店街のロケ地は、墨田区の「鳩の街商店街」だと、思われます。あの向島や荒川付近に代表される下町の風景も、それらに隣接する高層マンションも、どちらも現実の東京の風景です。そこにうごめく人々を飲み込む街の風景。それが、現実の東京の風景です。

大林監督は、ご自身の映画製作を、よく「街守りの映画」と称しています。現在、もっとも”街守り”が必要なのは、東京かもしれません。その東京の下町が、今回とても美しく、共感を持って描かれているのを、とてもうれしく思いました。

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”さすが”の「理由」

今回の「理由」の上映は、かなり期待を持って出かけました。
最初に、まず大林監督が「理由」を撮るという話を聞いたときに、「コレは何か、やってくれそうだ。」という印象が第一。
そして、大急ぎで、600ページを超える原作を、私としては驚異的なスピードで読み通したあとの印象は、「コレは本当に映画化できるのだろうか?大成功か、大失敗のどちらかしかないのでは?」と思った、期待と不安がその次。

しかし尾道の「山陽日日新聞」に連載されている監督のエッセイからは、「理由」にかける並々ならぬ意気込みが伝わってきたので、不安は大きな期待に、次第に変わってきました。

実際、4月にWOWWOWでテレビドラマとして放送されたときの評価は、上々なものだったので、より期待は高いものになりました。

そして、実際に見た「理由」は、期待に違わぬ物でした。

何と言っても、原作の雰囲気を壊していない。実際あの小説は、複数の家族のホームドラマ数本分を、1つの大河小説に取り込んだような形になっています。映画化を考えるならば、普通、その1組の家族にスポットを当てようとしそうなものですが、今回は、あえてその方法を採っていません。
映画はいくつかの”章”立てになっていますが、その章立ても、小説とほとんど同じです。しかし、原作のダイジェスト版というわけでもなく、逆に原作の方が、映画の詳細なノヴェライゼーションのような印象を受けます。
そして、小説は終始ルポルタージュ形式で書き進められていますが、映画の方も、ほとんどその形式を踏襲しています。最後に、その小説化・映画化そのものをもルポしてしまうという、ちょっと”やりすぎ”のような一面もありますが、そこまで行けば”ご立派”というべきでしょう。

台詞は、ほとんど関係者の証言の形で書かれています。余計な人物描写や会話がほとんど省略されているので、まるでワイドショーのインタビューの連続といった印象です。これが、あの膨大な原作を、2時間40分に縮めるマジックの”タネ”だったと、後でわかります。唯一、片方の当事者となる「宝井家」のシーンだけが、通常の映画の手法で描かれています。この綾子の証言は、最後まで姉弟の間で秘密とされるわけですから。原作を読んでいない人で、映画を見ながら「アレ?」と思われた人は、かなりカンのよい人です。

台詞のある役だけでも、107人もの配役。この配役の妙が、「理由」の最大の特徴です。どの役もハマリ役ばかりで、出番の少ない人も、その少ない出番に対して渾身の演技をぶつけてきています。まるで、一人芝居の連続を見ているかのような印象でした。この迫力とスピードで、あっという間の2時間40分でした。

映像の中で切り取られている、東京の風景については、別の記事で・・・

しかし、ラストシーンは、ちょっといただけませんねぇ。例の高層マンションに「八代祐司」の幽霊が現れ、街に向かって落下するというCG。そこまでリアリズムで貫いてきた映画が、いきなりファンタジーに変わってしまいます。(何か、「時をかける少女」を見るような・・・)CGそのものも、イマイチだし。

考えてみれば、あの”事件”の”真犯人”は、その八代祐司であるわけだし、彼のそれまでの”人生”については、あまり描かれていません。あのまま終わってしまったら、彼以外の登場人物の膨大な”人生”に押し流されて、八代祐司自体が忘れ去られてしまうかもしれません。(現実に起きる、さまざまな凶悪事件の当事者のように・・・)そこで監督は、彼を最後に印象付けようとしたのかもしれません。

しかしそれなら、原作でも最後に彼に言及していますし、映画のラスト近くでも、その文章をそのまま引用しています。「八代祐司のような、得体の知れない人間が、現実の世界にも現れ始めている。」ということを、監督は言おうとしているのかもしれませんが。別の表現方法もあったのではと、思ってしまいます。

エンドロールに流れていた歌も、何か悪趣味な感じがしました。
もうちょっと、粋で、それでいて、日常の中に潜む”怖さ”のようなものを暗示するようなエンディングの方が良かったのではないかと、思えてしかたがありません。

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「ハウルの動く城」の隠しテーマ

鎌倉を歩きながら、先日見たアニメ「ハウルの動く城」のテーマは、何だったのだろう?と考えていました。
誰が見ても、アレはラブストーリーだし、反戦的な表現も、強く印象付けられるし・・・。

ふと思ったのは、ヒロインのソフィーが、おばあちゃんになってから、俄然元気になったこと。それまでは、引っ込み思案で、自信のなさそうな女の子だったのに、年をとったとたんに、賢く、時にずうずうしく、活動的になっていく・・・。
ひょっとして、ともすれば否定的に捉えられている「老いる」ことの肯定が、隠しテーマなのでは?と思いはじめました。
「90歳のおばあちゃんでも、恋をすることが出来る、何をするにも年齢なんて関係ない。」というのが、宮崎監督のメッセージなのでは?と思い始めました。そういえばハウル自身、ソフィーの見た目の年齢は、気にしていないみたいだし。

原作も読んでみましたが、ハウルは空間だけではなく、時間も自由に行ったり来たりできる魔法使いとして描かれています。イギリス版「ドラえもん」ですね。現代のイギリスに、主人公たちが登場する章など、笑ってしまいます。

ところで原作には、どきりとするような台詞があります。すなわち「荒地の魔女があんた(ソフィー)を、おばあさんにしたのは、あんたを早く死なせるため。云々」
この部分は、アニメではカットされています。

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