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”5番”「改訂版」のコンセプト

前回の記事で、いわゆる「改訂版」の編曲のコンセプトは、「後期ロマン派的」と書きましたが、そのことについて、もう少し掘り下げてみたいと思います。

すなわち「ロマン派音楽」の時代というと、”文学趣味”の時代ということができます。この時代の音楽は文学と密接に関係していて、交響曲という絶対音楽の世界でも、何らかの文学的(というよりも、物語的といったほうが良い)なものを表現することが、よく行われてきました。
その先駆けがベートーヴェンですね。交響曲第3番や第5番で、ある特定の思想や物語を表現して、さらに第9番では、交響曲に声楽を持ち込んで、その思想を直接言葉で伝えるまでになりました。
その後の交響曲作家たちも、ベートーヴェンの後継者となることを目指していました。

ブルックナーの周辺で言えば、ワーグナーは歌劇の世界で独自の地位を確立し、マーラーは生涯物語性の高い作品を書き続けました。(彼の11曲の交響曲は、まるで音楽による、私小説のようなものです。)

交響曲を”音楽による物語”と捉えると、以下のような作曲技法になります。

単純な繰り返しは、行わない。
物語とは、時間軸に沿って、物事が進行していくこと。まったく同じことが、繰り返されるということはありません。したがって、音楽の世界でも、単純な繰り返しは避けられることが普通になります。実際、後期ロマン派の交響曲では、繰り返すという習慣は、あまり採られないようになってきます。

変化は滑らかに行われる。
物語では、ある物事が起きるためには、その原因となるものが必要です。したがって音楽の場合でも、その変化のプロセスが、ちゃんと表現される必要があります。そのプロセス=楽曲の構成ということになって、その構成の美を競うことが、言わば作曲家の腕ということになります。

ところが、ブルックナーの交響曲は、そういった、”時代様式”の対極にあります。言わば「アナログ」的な曲作りが時代様式とされていた時代に、「デジタル」的な曲作りを行っていたため、当時の聴衆からは、理解されなかったわけです。曲の切れ目で多用された、全休止も、不評をかう原因になっていました。物語としての連続性が、その休止によって途切れてしまうと、解釈されたからです。
後期の第7番や第8番の交響曲が、初演のときから好評だったのも、物語性を取り入れた、楽曲構成になっていたからだとも思います。

すなわち、”改訂版”のコンセプトとは、ブルックナー特有のデジタル的な曲作りを、できるだけ、当時の時代様式である、アナログ的な曲作りへと近づけようとした、ということになります。

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"5番"の「改訂版」を聞いて分かったこと

以前ここのブログの「不思議なブルックナーの楽譜」で紹介した、「改訂版」を聞いてみて、私なりにこの編曲のコンセプトを分析してみると、こうなります。

すなわち、「余分な繰り返しは、避ける。」こと、そして「急激な音色の変化は、避ける。」ことです。

繰り返しのカットの例では。スケルツオ楽章が、その典型です。

ブルックナーの多くのスケルツオ楽章の形式は、判で押したように、主部+中間部+主部(そのまま繰り返し)という形式で作られています。すなわち、中間部が終わったら、すぐ主部の先頭に戻って、主部を丸ごと演奏して終わり、という構成です。それが「改訂版」では、主部の途中(冒頭と同じ主題が出て来る場所)に戻って、そこから主部の最後まで演奏して終わるようになっています。すなわち単純に繰り返さず、繰り返した後は短縮するか、変化を付けるという、コンセプトですね。

こういった、"まったく同じ繰り返しを嫌う"という曲の作り方は、言わばブルックナーの次の世代の作曲家たちの間では、普通になってきます。("次の世代"の代表選手というと、マーラーです。音楽史では、「後期ロマン派」と呼んでいる時代です。)
この「改訂版」の"編曲"を行ったのは、ブルックナーの弟子のシャルクという人で、まさに"次の世代"の人。当時の習慣に従って、スケルツオの繰り返しを短縮したことになります。

次の「急激な音色の変化を避ける」は、少し説明を要します。
おそらく、ブルックナーの曲を最初に聞いた人がまず戸惑うのは、その急激な音量や音色の変化です。曲の途中で、いきなりバーンと音が大きくなったり、せっかくすばらしく盛り上がっていた曲が、突然途切れて別の主題が出てきたり・・・。場合によっては、いきなり背中を「わっ!」と、押されたような印象を受けます。

そもそもブルックナーさんは、オルガン(ここで言う「オルガン」とは、パイプオルガンのこと)演奏の名手だったので、そういった意味では音色や音量の急激な変化は、言わば"普通"のことでした。(オルガンは、徐々に音色や音量を変化させるのは、むしろ苦手な楽器です。)
しかしこれが、当時から評判が悪かったようで、「改訂版」では、その部分をできるだけ是正しようとした跡が、あちこちに見られます。

例えば、スケルツオの終わりの部分が、その典型です。「原典版」では、金管が終始ffで"吠え"ているのに対して、「改訂版」では、まず弦がffで始まり、続いて木管のトリル(ピッコロが増強されている!)が加わり、最後の数小節でようやく金管の刻みが、それもpからクレッシェンドしながら入ってきて終わるという、非常に手の込んだつくりになっています。

この"手の込み方"が、すなわち「後期ロマン派」的なわけです。では、なぜこういった編曲になったのかの考察を、次の記事で・・・。

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「理由」に散りばめられたキーワード

今回の「理由」は、今までの大林映画を連想させるモノが、分かる人には分かるように、散りばめられていました。

最初に気がついたのは、開始早々、交番の前を通り抜けるチンドン屋。「北京的西瓜」の八百屋のシーンで何回か登場します。
そして、上田のシーンは、「告別」の墓地のシーンを思い出させてくれました。(演じていたのが、峰岸徹さんだったからかもしれませんが。)「告別」といえば、学習塾のシーンで流れてきたピアノ曲は、「告別」の、いわばテーマ曲、リストの「ため息」ではなかったかと思います。ちょっと記憶が曖昧ですが。
ラストシーンは、「時をかける少女」を連想させますね。

それだけなら「ああ、そう。」で終わってしまいますが、ラスト近くに来て、おもわず「おおっ!」と声を上げてしまいました。
八代祐司がマンションの部屋で一人、りんごの皮をむくシーン。あそこは孤独感を表現しているシーンだとは思いますが、同じようなシーンで終わる映画があります。

ほかならぬ小津安二郎監督の「晩春」。娘(原節子)を嫁に出した父(笠智衆)が、一人りんごを取って、ナイフで皮を剥き始めます。まるで涙を隠すように目を細めながら、さくさくと器用にりんごを剥き続ける男。
こちらの「理由」では、不器用にざくざくとりんごの皮を剥く男。何か不思議な、キーワードの一致を感じてしまいます。

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「理由」の風景

映画「理由」の最初のシーンは、暗雲垂れ込める空の映像(というか、ほとんど静止画)でした。それに、不気味な音楽が重なって・・・。子供がコレを見たら、泣き出しそうな映像でした。(((^_^;)

今回の「理由」は、場面転換的に、風景だけの映像を短く挿入していたのが、印象的でした。それらのほとんどは、空と雲の映像。それが徐々に薄日が差し始めて、スポットライトのように夕日が射し込み。雲ひとつ無い、しかし血のような夕焼けになったりします。これは何かの寓意なのでしょうか?人の心の奥底の表現なのでしょうか?興味の尽きない映像でした。

ところどころ、まるでビデオの早回しのように挿入される、東京の風景も印象的でした。1つ1つの映像は非常に短い物ながら、まるでサブリミナル映像のように、東京の色々な風景を心に焼き付けてゆきます。それもただ”不気味”とか”無機質”というのではなく、実際に人がそこに住んでいて、そこでごく普通に生活している、普通の東京の景色。演じる人の背景の窓から見える、電車やビル街の風景も、いかにも”東京”の景色でした。それらが、非常に美しく感じられました。

舞台が下町に移ると、さらに風景に優しいトーンが加わります。始めのシーンで、あの少女が涙をこぼすシーンの暖かさ、それがラスト近くの「どうして他人のことなのに、こんなに泣けてくるんだろう。」という、少女の独白にもつながります。夕日の隅田川は、本当に泣けてくるほど美しく描かれていました。

おそらく、あの商店街のロケ地は、墨田区の「鳩の街商店街」だと、思われます。あの向島や荒川付近に代表される下町の風景も、それらに隣接する高層マンションも、どちらも現実の東京の風景です。そこにうごめく人々を飲み込む街の風景。それが、現実の東京の風景です。

大林監督は、ご自身の映画製作を、よく「街守りの映画」と称しています。現在、もっとも”街守り”が必要なのは、東京かもしれません。その東京の下町が、今回とても美しく、共感を持って描かれているのを、とてもうれしく思いました。

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”さすが”の「理由」

今回の「理由」の上映は、かなり期待を持って出かけました。
最初に、まず大林監督が「理由」を撮るという話を聞いたときに、「コレは何か、やってくれそうだ。」という印象が第一。
そして、大急ぎで、600ページを超える原作を、私としては驚異的なスピードで読み通したあとの印象は、「コレは本当に映画化できるのだろうか?大成功か、大失敗のどちらかしかないのでは?」と思った、期待と不安がその次。

しかし尾道の「山陽日日新聞」に連載されている監督のエッセイからは、「理由」にかける並々ならぬ意気込みが伝わってきたので、不安は大きな期待に、次第に変わってきました。

実際、4月にWOWWOWでテレビドラマとして放送されたときの評価は、上々なものだったので、より期待は高いものになりました。

そして、実際に見た「理由」は、期待に違わぬ物でした。

何と言っても、原作の雰囲気を壊していない。実際あの小説は、複数の家族のホームドラマ数本分を、1つの大河小説に取り込んだような形になっています。映画化を考えるならば、普通、その1組の家族にスポットを当てようとしそうなものですが、今回は、あえてその方法を採っていません。
映画はいくつかの”章”立てになっていますが、その章立ても、小説とほとんど同じです。しかし、原作のダイジェスト版というわけでもなく、逆に原作の方が、映画の詳細なノヴェライゼーションのような印象を受けます。
そして、小説は終始ルポルタージュ形式で書き進められていますが、映画の方も、ほとんどその形式を踏襲しています。最後に、その小説化・映画化そのものをもルポしてしまうという、ちょっと”やりすぎ”のような一面もありますが、そこまで行けば”ご立派”というべきでしょう。

台詞は、ほとんど関係者の証言の形で書かれています。余計な人物描写や会話がほとんど省略されているので、まるでワイドショーのインタビューの連続といった印象です。これが、あの膨大な原作を、2時間40分に縮めるマジックの”タネ”だったと、後でわかります。唯一、片方の当事者となる「宝井家」のシーンだけが、通常の映画の手法で描かれています。この綾子の証言は、最後まで姉弟の間で秘密とされるわけですから。原作を読んでいない人で、映画を見ながら「アレ?」と思われた人は、かなりカンのよい人です。

台詞のある役だけでも、107人もの配役。この配役の妙が、「理由」の最大の特徴です。どの役もハマリ役ばかりで、出番の少ない人も、その少ない出番に対して渾身の演技をぶつけてきています。まるで、一人芝居の連続を見ているかのような印象でした。この迫力とスピードで、あっという間の2時間40分でした。

映像の中で切り取られている、東京の風景については、別の記事で・・・

しかし、ラストシーンは、ちょっといただけませんねぇ。例の高層マンションに「八代祐司」の幽霊が現れ、街に向かって落下するというCG。そこまでリアリズムで貫いてきた映画が、いきなりファンタジーに変わってしまいます。(何か、「時をかける少女」を見るような・・・)CGそのものも、イマイチだし。

考えてみれば、あの”事件”の”真犯人”は、その八代祐司であるわけだし、彼のそれまでの”人生”については、あまり描かれていません。あのまま終わってしまったら、彼以外の登場人物の膨大な”人生”に押し流されて、八代祐司自体が忘れ去られてしまうかもしれません。(現実に起きる、さまざまな凶悪事件の当事者のように・・・)そこで監督は、彼を最後に印象付けようとしたのかもしれません。

しかしそれなら、原作でも最後に彼に言及していますし、映画のラスト近くでも、その文章をそのまま引用しています。「八代祐司のような、得体の知れない人間が、現実の世界にも現れ始めている。」ということを、監督は言おうとしているのかもしれませんが。別の表現方法もあったのではと、思ってしまいます。

エンドロールに流れていた歌も、何か悪趣味な感じがしました。
もうちょっと、粋で、それでいて、日常の中に潜む”怖さ”のようなものを暗示するようなエンディングの方が良かったのではないかと、思えてしかたがありません。

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「理由」鑑賞のレポート

宮部みゆき原作、大林宣彦監督の映画「理由」を見てきました。

あの、文庫本にして600ページを超える”長編”小説を、大林監督がどう”映像化”したのか、興味津々で、映画の公開日を待ちに待ったといった感じでした。映画の感想は、また別の記事ということにして。小説「理由」は、全体がルポルタージュの形で描かれているので、ちょっとその真似をしてみようと思います。

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「理由」の名古屋での上映館は、名古屋駅西口近くの「シネマスコーレ」。距離的には名古屋駅の新幹線口の目と鼻の先の場所で、「エスカ」地下街や「ビックカメラ」からも、至近距離。しかし、私はいかにこの界隈を知らなかったことか。「ビックカメラ」までは、よく足を運ぶのに・・・。

名古屋駅西口は、正式には「太閤通口」と命名されている。私たちの世代には「西口」といった名称の方がぴったりくるし、かつては「裏口」と呼ばれていた。いわば、”駅西”地域自体が、”裏”というイメージを払拭しようと躍起になっているような感じだ。
確かに、かつては堂々とした名古屋駅の駅舎が建ち、現在では「セントラルタワーズ」が聳える東側が、名古屋駅の表玄関というイメージが強く、現在でも駅前の東側は大手企業系列のビルで周囲が固められているし、地下街の規模も人通りも、ずっとこちらの方が大きい。

西側もそれなりに整備はされているのだが、がらんとした印象が強い。目を惹くのは現在は「ビックカメラ」が入っているビルと、右奥に林立する予備校のビル群。あとは、敷地面積の小さいビルが隙間を埋めている。
そういったビルも、いわばこの地域のほんの表皮の部分。この表皮の一枚裏側に、本当の”駅西”が隠されているのである。

目指す「シネマスコーレ」も、そういった街の角地、ジャングルに分け入るくらいのつもりで踏み込んだ街の、あっけないくらいすぐの場所にあった。繁華街によくある、雑居ビルといった感じの建物だったので、危うく前を通過するところであった。入り口には”玄関ホール”くらいのロビーがあり、そこで入場券とパンフレットを購入したところ、入場順の番号札を渡された。ロビーと入っても、奥行きが極端に短く、入り口に立っていても、ホールのドアが開くと鼻にドアがぶつかりそうなくらいの距離しかない。

開演まで、まだ30分以上あるので、外をぶらつくことにする。向かい側が「亜洲超級電影中心」という店。
店内には”ヨン様”の写真があふれ、ハングル文字のCDやDVDが積み上げられていて、しっかり”異国”の雰囲気。その隣も、半ばエスニック風の喫茶店で、思わず「ここはどこ?」状態。周囲は市場といった感じの食料品店が立ち並び、不規則な方向から不規則に道路が交わってくる。横浜の中華街のような”観光地”的な雰囲気は無く、実際に行ったことはないものの、何か韓国の都市に放り出されたような雰囲気。ようやく仮名文字の看板を見かけて、ここは日本であると、確信した始末であった。

さらに進むと、「駅西銀座」という商店街に出た。こちらは地方都市に良く見かける、駅前商店街といった雰囲気の、アーケードが続いている。しかも「新幹線駅前商店街」と銘打っているあたり、なかなかのもの。店舗幅いっぱいのガラス戸の向こうには、並んでいる商品はごく普通ながら、何か重厚な雰囲気を感じてしまう。ふと上を見ると、看板建築風の店舗が続く、昭和40年代が残っている町並み。振り返ると、新幹線のプラットフォームが見え、「セントラルタワーズ」が聳えている。

「シネマスコーレ」前に戻ると、前の道に人だかりができている。それが、この映画館の入場者であることを理解するのに、すこし時間がかかった。映画館のスタッフにコールされて、番号札の順番に館内に入ることになった。定員は、100人に満たないだろうか、狭い館内は、補助椅子が出るほど、ほぼ満席の状態になった。

さて、映画そのものについては、別の記事で・・・ (^^ゞ

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不思議なブルックナーの楽譜

ブルックナーの交響曲が好きです。中学生の頃、クラシックを聞き始めた頃は、大して好きでもなかったのに・・・。
それが、ブルックナーが好きになり始めたのは、ここ10年くらいの間。なんというか、”大きなものに抱かれているかのような、安心感。”が良いですね。
好きな曲といえば、7番も8番も良いですが、5番もなかなか捨てがたいです。特に、あの壮大な終楽章。ラスト数分間のコラールの音の洪水は、何ともいえない快感を感じてしまいます。

ところで先日、この5番の”変わった”楽譜を見つけました。輸入版で、出版元は「WARNER BROS. PUBLICATIONS」。タイトルは「Anton BRUCKNER SYMPHONY No.5」とだけ書いてあって、明らかに”見慣れた”「国際ブルックナー協会」全集版とは異なる譜面づら。「ノヴァーク」とも「ハース」とも何処にも書いてなくて、編曲者の名前すら記載されていません。ページを繰って行くと、最後のほうには通常のオーケストラとは別に、金管のファンファーレ隊が登場して、打楽器パートには、シンバルとトライアングルまで追加されている・・・
「これは、あの”悪名”高き(?)、『改訂版』というヤツか?」と思って、早速買ってきました。

早速、この楽譜が”音”になっている録音を、聞いてみたくなりました。確か、クナッパーツブッシュが、ブルックナーの交響曲では、「改訂版」を好んで演奏していた、という記憶を頼りに、”クナ”の”ブル5”のCDを聞いてみました。

思ったとおり、この”不思議”な楽譜が音になっている演奏でした。
いわゆる「原典版」を聞きなれている耳には、まったく印象の異なる曲が聞こえてきました。オーケストレーションに限って言えば、(専門家でもないσ(^_^)の耳では、そこまでしか”追う”ことはできない。)あるはずの楽器が省略されている。(スケルツオのクライマックスの金管が抜けている。)すなわち、ここでコケます。
一方で、余計な楽器でメロディーが補強されている。(終楽章冒頭で、原典版ではクラリネット1本で提示されるテーマの断片が、改訂版では繰り返されるたびに楽器が増えていき、終いにはフルートやホルンまで増強されます。(^◇^;;)すなわち、ここでのけぞります。
こんなコケまくり、のけぞりまくりの曲が、5番の”改訂版”です。

しかし、最後のクライマックスには、思わず納得してしまいました。ファンファーレ隊が、コラール主題を吹き鳴らし、シンバルが轟くといった譜面づらから連想されるような、(例えば、ショスタコービチの「祝典序曲」みたいな)お祭り音楽になるのかと思いきや、さにあらず。しっかりキメてくれました。長大で、それまでにもいくつもクライマックスのある終楽章。もともとこの最後の部分は、「ここでもう一超え、音響的な”何か”の補強が欲しい。」と思っていた部分ですが、その欲求不満を、見事に解消してくれました。

「これは、”改訂版”一概に毛嫌いするべからず。」との認識を、新たに抱かせてくれました。

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迷惑行為

meiwaku

東京都心の小公園にあった、「迷惑行為禁止」の立て札です。
野球って、迷惑行為なんでしょうかねぇ。

この看板の、野球をしている人の楽しそうな表情を見ていると、むげにも禁止できない気もしますが・・・ (^^;

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